H29.10.30
「学校整理案」により廃校となった「群馬県立太田中学校邑楽分校」のOBたち-「館中同友会」メンバーの尽力により、「群馬県立館林中学校設立決議案」が県議会で可決されたのは、大正9年12月10日のことでした。
【邑楽に県立中学を】
建議案
世運ノ進展に伴ヒ地方子弟ノ向学心著シク向上シ各種中学校ニ入学ヲ志望スルモノ年々多キヲ加フルニ至レリ。本県各種中等学校ノ数尠カラザルモ而モ僅ニ入学志望者ノ幾分ヲ収容し得ルニ過ギザルハ極メテ遺憾トスル所ナリ。 殊ニ中学ニ於テ其ノ然ルヲ見ル。是ヲ以テ県立館林農業学校ヲ移転シ邑楽郡ニ大正十年度ヨリ県立中学校ヲ設置シ以テ如上ノ缺陷ヲ救済セラレンコトヲ当局ニ望ム。 右建議候也
大正九年十月
提出者
赤坂 佐市 増田 長吉 本島 自柳 都木重五郎
山田平太郎 赤石武一郎 武藤 幸介 中澤幸三郎
賛成者
江原 文作 高橋 一作 長井 兼作 市川 元吉
星野 元治 桑原 佐吉 角田 格七 八木 丈作
田中京四郎 三ッ澤亀太郎 池田光之丞 田村作太郎
金井永次郎 深町代五郎 関口 四郎 青木松太郎
審議状況
十二月十日、日程変更、二十九番(赤坂佐市)「建議の理由-館林中学校問題は云う迄もなく是れ迄乙種農学校が邑楽郡に一校ある、中学校を欲しいというのは今初めてのことでなく五六年も前から郡として希望している。明治四十三年大水害により邑楽郡に多大の県費を使い、且年々郡に水害があり、始終県の救済を仰いで漸く其日を送つた有様であつた。幸い四十三年後に河川改修の結果、利根渡良瀬も河川進歩に従い十年此方更に水害を受けなかった。故に町村長郡会議員其他此際中学校を欲しいという為に郡内一致して建議案を出した。乙種農学校があるに拘わらず尚お中学校を欲しいと云うことは県経済、配置上許さぬとは考えている。故に中学校設立するならば農学校に郡補助をする希望を持つている。東上州一角の為に本建議に全会一致で賛成することを希望する。当局も邑楽郡何百の生徒を郡外に出していることは調査済と思う。農業学校も年々志望者は多くなつている。校長は父兄生徒に済まない為に定員以上の生徒を引入れている、中学志望者も三百も四百も四五年来ある、郡中に中学校ができれば更に志望者のあることが証拠立つている。若し中学校を置いてくれるならば農学校は他に移転するかどうするかに希望がある。農学校移転するなら、移転費は申すに及ばず又中学校設立には敷地は当然郡の寄付、且つ設立費他の例もあり県当局の指図により二分一は郡が寄付する。設置位置は自分等に望みがあるが私事である。案を入れて下されば当局指定の所に於て直ちに一万坪なり一万五千坪なり如何なる場所に於ても郡は違背なく敷地は寄付する。其他の設備費-設立費の半額は郡から出すのが当然だと思う。東上州は県下最も教育が劣つている。洵に貧弱である。私は涙を以て建議に就いてお願いする。」
十番(森川抱次)「本員は同地方の教育に斯く迄中学校設立を希望するは同情に堪えぬ所である。併し昨日多数同僚諸君の出した建議には農業教育は非常に大切だとして勢多農林学校学級増加を決議した。県としては教育の立場から農業教育を割いて中学教育にするというに対して当局の考えを質問する。」
参与員(馬場一衛)「十番に伺う、お尋ねが分かり兼ねる・・・」
十番(森川抱次)「農業教育を変えて中等するという建議の趣意について・・・」
参与員(馬場一衛)「今の建議-乙種農学校を変えて中学校を建てる-建議の趣意は農業教育中学校に変えると云うのでないと承つた。新たに邑楽郡に中学校を建設して貰いたい、現在の農業教育機関は其侭とし唯其の経費負担は邑楽郡が現に支出する負担額は寄付するという建議と承つている。従つて従来の農業学校は其侭存して新たに中学校を建つてくれというのである。」
これで採決し多数を以つて建議を入れるに決した。
付帯決議
十二月十日、前項決議に引続き動議により、二十九番(赤坂佐市)「中学校設立につき、唯今の建議により大正十年から着手して頂きたい希望である。その要旨は総て参事会に委任事項として付帯決議を致したい。
(「斯ウ云ウ風ニ」と書類を提出)
県参事会委任事項ニ関スル件
群馬県会ト府県制第四十二條ニヨリ左ノ権限ヲ群馬県参事会ニ委任ス。一本会議ノ建議ニ基キ邑楽郡ニ県立中学校ノ設立セラルル場合ニ於ケル予算其他並右ニ関シ館林農学校ノ移転ヲ要スル場合ハ其ノ移転ニ関スル予算其他議決ノ件
これは直ちに委任するに決した。このかげには当時若かった増田連也氏の献身的な活躍があつたのである。
(群馬県議会史 第三巻より)